東の森

舞台訪問(聖地巡礼)とか色々マイペースに

【西オーストラリア旅行】 2日目 フリーマントル散策・博物館巡り

「よりもい舞台訪問」はこちら→(工事中)

移動行程:宿→ラウンドハウス→サウスモール灯台→難破船博物館→Bシェッドフェリーターミナル→西オーストラリア海事博物館→潜水艦オーヴェンズ→昼食→フリーマントル市場→フリーマントル刑務所→宿(夕日を見るために再度サウスモール灯台へ

 

フリーマントルの歴史をものすごく深められた1日でした。

幸いルームメイトは2人とも静かな方々だったため7時間の熟睡の後、2日目が始まりました。

久しぶりに早起きをして、シリアルをかきこみ市内へ。9時前ですがすでに陽は高く、暑くなっていました。すでにバテ気味になりながらもよりもいの舞台を訪問して周りました。

 

・難破船博物館

フリーマントル第二次世界大戦時の軍事基地だったことは知っていたので、近代艦船が登場する博物館だと思っていました。(事前情報無しで入館)実際は違ったがいい意味で裏切られた。

イギリス入植前のオーストラリア、1718世紀ニューホランド(新オランダ)と呼ばれていた頃の難破船や出土物の展示でした。以前シドニーの海事博物館を訪れたときは、イギリス植民地としての歴史中心だったのと好対照でした。イギリスのファースト・フリート旗艦シリアスが今のシドニー東海岸)に来航したのが1788年1月20日、そこから遡ること100年以上前、オーストラリアの西海岸をオランダの船が測量していたのです。ここには、オーストラリア近海で発見された沈没船のレリックが多数展示されていた。

f:id:easternforest:20200216204857j:plain

沈没船の一部を復元した展示

f:id:easternforest:20200216205535j:plain

ひげの濃い男性が描かれてた容器の欠片。ワインや酢などを保存していたらしい。

f:id:easternforest:20200216205809j:plain

オランダ東インド会社(資本主義の説明で使われるイメージがある)の商船から出てきた埋蔵金。収奪で得た富の権化

・西オーストラリア海事博物館 続いてのこちらは、メインが潜水艦ツアー。さすがに休日だけあって結構埋まっていたけど、幸い数分後に始まる回に空きがあるとのことで飛び入り参加。オーストラリアの学生なので学割で行けた。やったぜ。

 

潜水艦オーヴェンス(HMAS Ovens). 英国で建造されたオベイロン級潜水艦のうち、オーストラリア海軍に所属となった6隻の一。進水1967年、退役95年

参加者は8名。最初にどこからきたのかみんな聞かれたので出身国がバレる。豪3米2独1韓1日1(私)。オーストラリアにとって日本ってのは唯一直接侵略してきた国でもあるので、ミリ関係の場で国籍明かした後の雰囲気にちょっと苦手意識がありますね。。。

さて、皆んなで潜水艦に向かって歩く......

f:id:easternforest:20200216210742j:plain

潜水艦の底部をはっきり見られるのでちょっと興奮。

f:id:easternforest:20200216211336j:plain

船体上部にこういった空気孔があるのを知らなかった。この内部は作業スペースになってて潜航時は浸水する


結構狭くて急な階段を2回下って船内進入。魚雷を詰め込む部分を改造したらしい。最初の部屋は8人ギリギリ入る広さ。

f:id:easternforest:20200216211540j:plain

ここから入る

f:id:easternforest:20200216211621j:plain

脱出口(上)と魚雷発射管(奥)

 

f:id:easternforest:20200216211933j:plain

この白い管を酸素が通っており、緊急時は管から枝分かれしている金具から酸素を吸いながら脱出するらしい。

酸素の通ったパイプが張り巡らされている。緊急時は、酸素が出る部分にシュノーケルを接続して息継ぎしては外して移動を繰り返しつつ脱出口に向かうみたいですが、難しそうですね。

続いて兵員の寝床。ペーペーのクルーはめっちゃ狭いところに20人近く押し込まれて生活するとのこと。ありえないぐらい臭くなるらしい。

f:id:easternforest:20200216212506j:plain

これで1人分のスペース...1畳分、高さ50cmくらいしかない。

f:id:easternforest:20200216212727j:plain

大量の計器

f:id:easternforest:20200216212758j:plain

潜望鏡のある部屋。用途に合わせた大小合計7種類もの潜望鏡があった。

上の潜望鏡は、敵に近接していない時に使うもので写真左の椅子に隊員が座って、潜望鏡を回転させながらじっくり観察するらしいです。写真が赤いのは、部屋を暗くして非常灯だけにしているため。
参加者の
1人は兵役経験者で、ガイドと時折軍事ネタの会話をしていました。日本の護衛艦についても詳しく、内装のなんか(忘れた)をそうりゅう型のと比べてました。

f:id:easternforest:20200216213241j:plain

f:id:easternforest:20200216213257j:plain

意外と日本に関わりがあったようだ。銀座のナイトクラブで楽しんだ隊員もいたらしい。

終了後、スタッフの1人が、「やっぱ男性ばっかかー」ってボヤいていた。国内外かかわらずミリネタは男性に偏りがちですかね。

ちなみに博物館屋内の常設展や特別展も見ました。シドニーの海事博物館は、海軍と移民船メインの展示だったのに対し、こちらは漁業関係が多かったと思います。

軍関係の展示としてはオーストラリア西部最大の潜水艦基地(最大160隻超)としてインド洋方面に睨みをきかせていたとのことで、フリーマントルが対日戦において非常に重要な基地だったことを感じました。

特別展はどういう訳かローマ時代の発明品の展示。戦時と平時の道具が半々ずつ。道具の半分ぐらいは触って仕組みを体感できるので面白かった。なぜここで展示していたのかは分からなかったです。

f:id:easternforest:20200216214338j:plain

回転すると水が汲めるらしい

 

・昼食

駅前のモールに日本食屋があったので入店。番号札を渡されたが、自分で取りに行くスタイルではなく、店員が席まで持っていくスタイル。美味しかったです。

f:id:easternforest:20200216214537j:plain

鳥照り焼き丼+味噌汁

フリーマントル刑務所

昼食後、フリーマントル市場を見て、それから作業しようと図書館に向かったら、生憎午前で閉館だったので仕方なく宿に戻ることにしたのですが、宿の手前に来た時に、「そうだ、隣のフリーマントル刑務所に寄ろう」と思って訪問。宿のすぐ隣に施設への入口がありました。実際に1991年まで刑務所として使われていた施設ほぼそのままの内部をじっくりと回れる世界でも数少ない遺産です。

ここは有料のガイド付き施設内(Behind Bars)ツアーがあり、日本語など他言語の音声案内もあるので安心です。潜水艦の時とうって変わって参加者は30人あまりですごく多い。大半は家族連れ。ちびっこを牢屋見学に連れて行くのなかなかすごいなと思った。案内所の脇に集合して、時間になったらガイドが出てきて案内が始まった。フリーマントル刑務所の歴史は1855年まで遡ります。イギリスから送られてきた囚人の収容施設として始まったが、一般の刑務所になったのち、1887年からは女性の受刑者も受け入れるようになったり、アボリジニを不当に収容する施設として用いられていたり(施設内で産まれたアボリジニの子どもは政府により連れ去られた)、第二次世界大戦中は敵国の捕虜を抑留する施設としても使われたりしました。ガイドは戦後の話を中心にするとのこと。

当のガイドに戻ると、最初は結構広い単色の部屋で、そこは新しく収監された受刑者が、長いベンチに横並びで全裸になって座らされ、1人ずつ看守に呼ばれて他の受刑者の前で綿密な身体検査を受けたとのこと。初っ端から意図的に尊厳を踏みにじられるようなことをされるのだが、まだ序の口。

続いて生活だが、独房内に持ち込むのはバケツ1つ。大小便はそのバケツにする。朝の点呼で、バケツを持って独房前に並ばされる。シャワーは数日おきに一回、一回4分だったとのこと。4分ではとても隅々まで綺麗に出来ないので、不衛生だっただろう。食事は厳格に定められ日三度、金属プレート1つを渡され、そこへ盛って糞尿バケツがある独房内で食べる。食べ物の多寡や品質を巡った喧嘩はほとんど起こらなかったらしいが、1968年には悪くなった肉を出しているのではという噂が受刑者の間で広まり、チャイムに合わせて反乱が起こったとのこと。受刑者と看守の双方にけが人が出、半日がかりで鎮圧された。

受刑者の一部は仕事(主に刑務所内)に就くことが出来た。給料は時給10豪ドルなど、現在の最低賃金の半分ほどだが、過酷で、退屈を紛らわす手段が殆どない環境では僅かばかりの救いだったという。また、仕事をしている間は他の受刑者からいじめられる心配も少なかったみたいです。牢屋内で一番いい仕事は調理。払いが一番よく、囚人にとって一番充実感が得られたとのこと。仕事で稼いだお金は現金ではなく囚人用の通帳に貯蓄され、そこから親族へ仕送りする者もいたようです。少年犯罪者や女性の収容施設も見た。8歳だか9歳で捕まった子どもの話や、たかが「下品な言葉遣い」で捕まった女性の話などを聞きました。

続いて、死刑執行の部屋へ。1984年に西オーストラリア州で死刑が廃止されるまで、実際に44人が執行されたその部屋に案内されました。写真は載せませんが、部屋の高くなった部分に落し戸があって、死刑囚はその上に立ちます。(障害やショックなどで立てない場合は椅子を用意)、その後、上から吊るされた縄を首にかけられます。縄の長さは囚人の体格にあわせて計算されていたとのこと。そして、合図とともに、落し戸が開いて死刑囚は重力に従って首が吊られ、死に至るという手順です。縄は執行当時のものと異なっていても、「この場で人が殺された」という現実は、非常に強力な空気感となって身体を侵食する感覚をもたらします。

f:id:easternforest:20200217141024j:plain

刑務所の庭。ここで庭仕事を任せられた受刑者もいた。

f:id:easternforest:20200217135634j:plain

囚人が仕事でパンを焼いていた部屋。

f:id:easternforest:20200217145624j:plain

収監施設。自殺防止の網が備えられている。

f:id:easternforest:20200217145743j:plain

家族に手紙を出したり、配達物を依頼したりする用のポスト。

f:id:easternforest:20200217150016j:plain

収容所末期に、ある人が描いた壁画。年々劣化が進み、あと2、30年もすれば消えるだろうと言われている。

f:id:easternforest:20200217151733j:plain

受刑者によって独房内に描かれた壁画。

f:id:easternforest:20200217152135j:plain

女性受刑者の記録。見るとobscene language(猥褻な言語)やdrunk(酔っていた)で収容されているケースがある。

 個人的な感想ですが、刑務所の待遇は人間的に妥当では無かったと思います。必ずしも論理的に正当化できない待遇の下で、退屈な閉鎖空間に長期拘留されるのは精神的に耐え難いものがあったと思います。しかも、犯罪人を処罰するシステム自体が、貧困者や社会的弱者に不利な作りになっていると思います。お金持ちや政治家が贈収賄で国民の血税を無駄にし、貧富の差を拡大させる施策を採って多くの人を不幸に陥れても捕まることが少ない一方で、物質乱用や万引きなど影響が「ささいな」犯罪や、果ては政府に楯突いたという理由で理不尽に処罰され、受けることになる社会的なスティグマも大きい。(違う国ですが、アメリカでは刑務所のビジネス化が問題視されています)

M. Gandhiは、"The true measure of any society can be found in how it treats its most vulnerable members" (社会をはかる真の物差しは、最も弱い者がどのように扱われているかに存ずる)と言ったが、オーストラリアはその点でいうと残念ながら弱者に厳しい国と言わざるを得ない。難民は離島に隔離する、囚人を理不尽に扱う、住居の確保は難しい、生活保護はキャッシュレス化して使途を制限する、ホームレスや低所得者への対応はボランティア任せ、権利章典が無いから政府が言論を抑圧する。その一方で、石炭・天然ガス・農業関係の多国籍企業は大歓迎し、血税を投入して国立公園をビジネスに開放しようとしている。とはいえ期間滞在者の私が大手を振って反体制活動をしたところで、国外追放されるのが関の山でしょうね。

善良な市民と悪人とに人々を分断する国家の暴力性を確認するとともに、国家が個人の権利を制限する営みは、理由が何であれ厳しく監視しなければならないという感覚を新たにしました。

 

・その後

宿で作業し、夕食を取ったのち夕日を見にサウスモール灯台へフリーマントルの海岸では、祭りが行われており、沢山の人が酒を飲みながらライブに耳を傾けて楽しんでいました。元々オーストラリア・デーに行われていた祭りだったのですが、市が3年前から先住民の感情に配慮して1日前倒しにしたのが功を奏して、様々な出自の1万人以上の市民や観光客に楽しまれているそうです。(オーストラリア・デーにまつわる問題については別記事で話したいと思います。)

サウスモール灯台から見た夕日は今年一最高でした。

f:id:easternforest:20200217155344j:plain

 そうして夕日が見られ、施設巡りもできて満足し、シャワーを浴びてさっぱりしたタイミングで、ちょっと嫌な出来事が。宿のコモンルームで作業していたら、部屋の奥でテレビを見ている人達の中に一人酔っぱらった風のがいて、「オーストラリアはアジアに寛容すぎる」だの「50年後はオーストロアジアになる」だのを大声で言い始めた。スポーツ番組を見ていたようで、「この選手はオーストラリア人じゃない」などと宣っていた。その後、ちょうどニュースでコロナウイルスの話が出ていたので皮肉交じりで「よくやった!中国」など言っていたが、聞いていて気分の良いものではなかったです。しかも、私のようなアジア系の人がいる前でそのようなことを大声で言うのは、自分に対して悪意があるとみなしても無理がないのではないしょうか。日頃から悪俗なコンテンツを楽しんで消費している哀れな人なのだろうなと思うことにした。

 しかし、ここでこれまで自分が感じてきたよそよそしさや、日本語を使っている時に受ける眼差し、同じ大学生同士といえども簡単に消えることのない白人によるステレオティピカルな見られ方を思い出し、現地人と触れ合うことに対する不安が噴出してしまったのです。ここから現地人たちと自分との距離感の掴み方がまたわからなくなりました。「人種」という分断によって本質的に分かり合えない部分があるとする考えは幻想なのだという確信は、この程度のきっかけで揺らぐのでした。

3日目に続く