東の森

舞台訪問(聖地巡礼)とか色々マイペースに

正直者が馬鹿を見る

問題は可視化されないから悪い事実は無かったことになる。

悪い事実は無かったことになれば、うまく行った部分だけが世間に認知される

権力のある者は、うまく行った部分を際限なく拡張することができるし、自分の成果にすることができる。

そうして、批判した奴は、和を乱した者、権力者の行動を妨げた者として悪になる。

その「和」とやらのせいで、苦しんでいる人は忘れ去られたまま。

しかも、よりひどいのは、苦しんでいる者さえ自身の苦しみの原因に気づくことができなくされていること。

それは、自分のために語る「言葉」を支配層から奪われたままになっているから。自己責任だとおもってしまう人だっている。

 

正義よりも秩序を重んじる穏健派が憎い。だが、ガンディーやキング牧師ならばその憎しみを許さないだろう。

かれらの言葉はこの上なく優しさにあふれたものだが、その通りに実践し続けることは最高峰の厳しさを誇っている。

かれらのような、真実語を語り続けられる人になりたい。

だからこそ、手柄を横どりされようが、信じていた者に裏切られようが、一生馬鹿にされ続けようが、諦めてはならない。

また、正しい目的を達成するためには、正しい行いで以って臨まなければならない。

目的の正しさと、行いの正しさは強く連関しているが、それぞれの内容を考えるのにはそれぞれの難しさがある。

目的の正しさは、社会で最も弱い人々と関係している。行いの正しさを考えるには、すべての因果を洞察する必要がある。

因果が結実するタイムスパンは、刹那ほどの短さかもしれないし、永劫の長さなのかもしれない。

故に、人間的な次元で論理的に検討することは困難なのではないかと思う。だからこそ、活動家の言行が重要視されるのであろう。

その中にあって、非暴力・不服従というのは、一つの明確な指針だ。

キング牧師が肉声で答えているインタビューがインターネットにあったので、先日視聴した。(当該の動画リンク: https://www.youtube.com/watch?v=fAtsAwGreyE)

そこでかれは不正義の法と闘って、潔く捕まることの重要性を説いていた。

日本では、法を変えるための社会運動はなかなか賛同を得にくい。しかし、現実社会の荒廃を見るにつけ、必要なのはそのような不正義の法の闘う大衆運動なのではないか。

そして、潔く捕まるというのも重要なポイントだ。

あれこれと屁理屈を捏ねたり、その場しのぎの日本型謝罪でごまかしたりせず、堂々と反体制運動を広げて、堂々と捕まろうではないか。

そうやって人々に(そして自分に)力を与えていきたい。